14/03/02 「只管打坐3.0」へのアップデート Posted on 2014年3月2日2020年5月23日 by onedhamma_ryodo 2014(平成26)年 日曜ワンダルマ坐禅会法話 山下良道(スダンマチャーラ比丘) 法話 音声プレーヤーhttp://ia600205.us.archive.org/10/items/Onedhamma2014/OneDhamma_140302.mp300:0000:0000:00ボリューム調節には上下矢印キーを使ってください。
盤珪さんの話がでましたね。 不生が青空のことといってもよいとのことでした。 血を血で洗うなら、新しい血が残ってしまうではないかとおっしゃってますが、 血そのものは初めから働いていたということが、不生という表現になったとするならば、要は、そのことにやっと気付いたということではないでしょうか。 これ以上苦行を続けて、命までなくなったらモトも子もないというところまできて、 「血」の働きに気付くことが出来た。 血を汚していたのは、実は自分の執着であり、迷いだったと気付いた。 ブッダもおなじような体験から、もともと備わっている命の営みに気付いたということでしょう。 してみると、山下師の「1.0や2.0」は納得いかないというのは、結論を出すのが早すぎたといえるんではないかという気がします。 いきなり「3.0」から入る人でも、本来は青空なんだと知るためには、瞑想という手順が要るでしょう。最後に、その主体が落ちるというところで、はじめて「納得」といえるということではないかなと思います。 返信
盤珪さんの話がでましたね。
不生が青空のことといってもよいとのことでした。
血を血で洗うなら、新しい血が残ってしまうではないかとおっしゃってますが、
血そのものは初めから働いていたということが、不生という表現になったとするならば、要は、そのことにやっと気付いたということではないでしょうか。
これ以上苦行を続けて、命までなくなったらモトも子もないというところまできて、
「血」の働きに気付くことが出来た。
血を汚していたのは、実は自分の執着であり、迷いだったと気付いた。
ブッダもおなじような体験から、もともと備わっている命の営みに気付いたということでしょう。
してみると、山下師の「1.0や2.0」は納得いかないというのは、結論を出すのが早すぎたといえるんではないかという気がします。
いきなり「3.0」から入る人でも、本来は青空なんだと知るためには、瞑想という手順が要るでしょう。最後に、その主体が落ちるというところで、はじめて「納得」といえるということではないかなと思います。