One thought on “16/01/31 未提出の宿題としてのフェルトセンス

  1. フェルトセンスなる言葉を初めて知りましたが、私が昔やっていた「モノの名前を忘れる」という遊びに通じるものを感じたので、コメントさせていただきます。
    その遊びは、少し薄暗くした部屋の中で、例えば鉛筆削りならそれを「この青くて黒い取っ手のある四角いモノは何だったかなあ…」と思えるまでボンヤリ見続ける、というものです。私はもともとボンヤリした少年だったので、意外とうまくモノの名前や働きを忘れることができました。最初に目の焦点をモノより後ろにもっていくのが成功するコツでした。
    ひとつのモノに成功すると視線を隣に移し、またそれが何だったか忘れるまで見続ける。忘れたら視線を次に移す。そして「何だったかな」と思えるものを少しずつ増やしていく。
    そのうち視線が床に投げ出した自分の足まで届くようになり、パンツ一丁でやるようになってお腹まで「何だったか」忘れることができるようになり、最後には自分の見ている肌色の棒状のものがなかなか自分の指だと思い出せず、そのことにかなりの衝撃を覚え、怖くなってその遊びはやめました。
    いま思えば、私が遊びでやっていたのは対象から名前(働き・意味)を引き剥がす試みだったのですが、これは、身体の内側のフェルトセンスにフォーカシングすることで、問題を抱えた思いから余計な感情などを引き剥がすプロセスに似ています。(もっとも、私の場合は「フォーカス」とは逆方向の集中力を使っていたような気がしますが)

    ところで、そんな遊びに熱中する離人症気味の高校生だった私が「青空」に立った瞬間があります。
    個人的な話なので手短に。ある夏の朝、私は立入禁止だった学校の屋上に忍び込んだことがあります。明け方雨が降ったのかあちこちに水溜りができていました。空は晴れていて、水溜まりに映った青空の中に白い月が映っていました。私はふと、持っていたメモ用紙を指で破いて三日月の形を作り、水溜まりに浮かべてみることを思いつきました。水溜まりの中の青空と私の紙製の月、それに本当の月を見つめているうち、自分が月を見下ろしているのか見上げているのか、あるいは月から見下ろされているのか分からなってきました。
    その時突然、「自分がない」ことが自由であること、自分がなくても世界はあるがままにあって、自分もそれを見ることができる、という考えが天啓のようにひらめきました。自分がないのに見ることができるという不思議を、私は「ゼロの視点」と呼ぶことにしました。
    私はこの考えが大発見のような気がして、1週間くらいはフワフワして地に足がついた感じがしませんでした。世界が変わるかもと本気で思ったのですが、そちらは何も変わりませんでした。それでも私のものの見方は以前とは180度違ってしまいました。自分がないけどある、ゼロの視点に立っていると感じたあの瞬間が、私の「青空」体験です。

    こんな話をしたのは、「一法庵では①→③→②と進むが、①→②→③と進むフォーカシングのような技法もある」という話に触発されたからです。私の「青空」体験と「モノの名前を忘れる」遊びに凝った時期はほぼ同時期でしたが、後から振り返ってみると、確かにあの変な遊びに熱中していたからこその「青空」体験だったような気もします。②をやっていれば③に進むというものではありませんが、それは坐禅も瞑想も同じで、本来は③に通じる道は1つではないのではないでしょうか。(というか、やはり③と②は裏表の関係で、②にはいろんな形があるということではないでしょうか)

    仏教の修行者でもないのに、それこそ野狐禅のそしりを受けるかとも思いましたが、自分の話などさせていただきました。
    長文たいへん失礼いたしました。

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