16/03/13 「自己ぎりの自己」=<私>=「青空としてのわたし」

2016(平成28)年 日曜ワンダルマ坐禅会 山下良道(スダンマチャーラ比丘)

新宿朝日カルチャーセンターで、「仏教3.0入門 普勧坐禅儀を読む」の講座のなかで、<私>と「私」について考察。それを参加者が図にまとめてくれました。これを皆ながら法話をお聞きください。

160310asakaru

One thought on “16/03/13 「自己ぎりの自己」=<私>=「青空としてのわたし」

  1.  初めてコメントします。在家で30年以上、最初期のインド仏教を研究し瞑想を続けている者です。「生老病死」の難問は、仏教者として超えなければいけない大きな問題、その解決は簡単なものではありません。
     質問者の方々が、「どうして?なぜ?」と多くの疑問をもち、それを「こうですよ」と、すぐさま納得させ得るような性質のものではない難しさを感じております。

     山下先生が教えられるように、私たちが生まれてから長い期間なじんで来た「この世界」と、瞑想によって感得できる「青空の世界」があります。
     少なくても、先生の教えられる「青空の世界」が具体的にどういうものか?イメージ出来ないと、なぜ「生老病死」が簡単に超えられる(と言うか関係無い)のかと言う意味が理解出来ないのでは・・・と、法話を聞いて感じました。

     私の例で恐縮なのですが、私の青空は「何もない空・無相」(特段の姿・形が無い)の世界で、瞑想時は、いつもそういう状態になります。
     特段姿・形が無いから、特段の思考もなく・・・当然「生老病死」など存在しません。慈悲心に満たされた世界で、幸福感・安楽感に満たされています。

     それは、広~い姿・形の無いエネルギー空間に、自分という小さなエネルギー体?がす~っと同化し、分け隔ての無い慈悲という愛情に満たされてゆらゆら?安心して漂っている・・・という様なイメージでしょうか?

     その世界は、私たちの生きる「この世」とはコインの裏表に相当する世界?で、決して空想の世界では無い・・・ということ。
     (だから、瞑想で感じる事が出来るのでしょう・・・)

     瞑想を深めて、「青空(空・無相)の世界」をきちんと感得出来るようになれば、自ずと「生老病死」は超越出来ると言うことになります。
     と言うか「関係無い」という事。
     ただ、それには超えなければいけない高い高いハードルがあります・・・瞑想の世界で・・・。 
     その為には、一生懸命瞑想トレーニングに励まねばいけませんね。

     いつも読んでいる、「スッタニパータ」と言う最古層の原始仏教経典の一節を紹介します。
     「つねに良く気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。」(中村元訳・SN1119)

     良く気をつけ・・・とは、マインド・フルネスと言う事ですね。「自我に固執する見解を打ち破る」とは、仏教思想を良く学びなさい。そうすれば、どうやって自我を超える事が出来るかが分かりますよ・・・ということ。そして「空を観ずる」とは、「空・空・空」と空を無理矢理イメージするのではなく、目を閉じて呼吸に意識を集中して行ったら「自ずと空なる世界が広がる」・・・そこまでトレーニングしなさいよ、という事です。

     難しいコメントになり、余計混乱したかも知れませんがお許し下さい。

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