2016(平成28)年 日曜ワンダルマ坐禅会 山下良道(スダンマチャーラ比丘)
One thought on “16/04/03 映画館の外のもうひとつの知性(インテリジェンス)”
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「生老病死」の問題は本当に難しいですね。山下先生の説かれる「青空」は、ヨーガ的にはプルシャ(真我)と申します。(『アップデートする仏教』223頁参照)
そこで、今回のご法話の内容について、我が国のヨーガの第一人者と言われる故佐保田鶴治師の著書を参考に、少し考えてみたいと思います。
「・・・ただブッダは真の自我があるとはおっしゃらなかったのですが、それは真我(プルシャ)があるなどといえば聞き手に誤った了見を起こさせる恐れがあるとお考えになった結果と推察されます。真我(プルシャ)というものは「ある」ということばをつけることができないものであつて、あるともないともいえないものであるという点があるからとも考えられます。
とにかく、個人的存在の基礎になるべき我を否定するのはブッダ教説の真意ではないと申さねばなりますまい。それでは個人的存在の基礎となる主体をブッダはどんなものとしてお考えになられたのでございましょうか?ある学者はこれをネハン(ニルヴァーナ・寂静)の境地と見ております。われわれが涅槃の境地に入った時に真の自分に帰ったわけでありますから、これが真我(プルシャ)であり個人的存在の基礎なのだと見るのは道理に合っております。
ウパニシャッドのなかに五我説というものがございます。これは人間存在を外から内へと重なり合った五つの要素からできていると見る考え方なのでございますが、その一番内側の自我を「妙薬から成る自我」と名づけております。妙薬というのはその内実においてネハンと同じことでございます。そこでネハンはすべての「有る」ものの姿の消えてしまった状態でありまうから、いかなる意味においても「ある」ということはできません。かといって「ない」ともいえないのであります。
なぜかといえば、通例「ない」というのは実は「ある」の一種なのでありまして、「ある」ということを予測しませんと「ない」ということはいえないのでございます。ヘーゲルは、この点を鋭くついております。あるともないともいえないところは言いようがないので、これを仏教では「空」といったのでございます。ですから大乗仏教の哲学で空といいますのは真我(プルシャ)のことであると申してもよろしいかと存じます。」(佐保田鶴治著『般若心経の真実』44~45頁)※真我に真我(プルシャ)と付記しました。
先生がご法話で言われるように、青空(すなわち、リリーフピッチャー)の状態というのは真の自分に帰った状態(すなわちプルシャ(真我)の状態)であり=ネハン(涅槃・寂静)の状態であるから、当然そこ(ネハン)には「生老病死」は存在しない・・・ということになる訳です。
難しい文面で申し訳ありません。参考まで。