2016(平成28)年 日曜ワンダルマ坐禅会 山下良道(スダンマチャーラ比丘)
正法眼蔵随聞記 1−13
夜話に云く、祖席に禅話をこころへる故実は、我が本より知り思ふ心、次第次第に知識の詞に随ひて改めもて行なり。仮令仏と云は、我が本より知たりつるやうは、相好光明具足し説法利生の徳ありし釈迦弥陀等を仏と知りたりとも、知識若し仏と云は蝦蟇蚯蚓と云はば、蝦蟇蚯蚓を是ぞ仏と信じて日比(ひごろ)の知解を捨つべきなり。此の蚯蚓の上に仏の相好光明、種種の仏の所具の徳を求むるも猶情見あらたまざるなり。只当時の見ゆる処を仏と知るなり。若し此の如く詞に随て情見る本執をあらためもて行かば自ら契ふ処あるべきなり。然あるに近代の学者、自らの情見を執し己見を本として仏とはかふこそあるべけれと思ひ、亦吾が存ずるやうに差へば、さはあるまじいなんどと云て、自らが情量に似たることやあらんと迷ひありくほどに、大方仏道の精進なきなり。亦身を惜まずして百尺の竿頭に上りて、手足を放て一歩を進めよと云ふ時は、命ありてこそ仏道も学すべけれと云て、真実に知識に随順せざるなり。能能(よくよく)思量すべきなり。
ご法話、大変ありがとうございました。
今回のお話は、とても分かり易かったです。(聞き慣れたせい???)
発心・・・まことに、大事なものだと思います。(これが無ければ、全ては始まらないですから・・・。)
私自身は、「開経偈」(かいきょうげ)の教えが好きなのですが、良く読んでいる「スッタニパータ」にも次の様な教えが説かれています。
ある神がブッダに「人間の最上の富はなんであるか?」と問いを発したのに対し、ブッダは「信仰が人間の最上の富である。」と答えているお経です。(スッタニパータ 181・182)
ここで述べられている「信仰」とは、「ブッダの説いた真理・理法に対する信仰」を指しますが、それが人間にとって最上の富だと言うのです。
因みに「富」とは、「財産や物がたっぷりある。」と言う意味がありますから、単に「○○は財産だ!」と言う狭い意味ではなく、最上の宝以上のものですよ・・・と言うこと。
そう考えたら、仏道と縁が生じる事が「いかに希で有り難い事なのか・・・」と思わずにはいられません。
その事に深く感謝し、「ゆっくり・のんびりでもこの道を進む」という発心を起こす気持ちになってしまいます。