One thought on “16/08/07 時代の病弊と「宗教としてのマインドフルネス」

  1. いつも興味深く聞かせていただいております。
    今回の内容で気になる事がいくつかありましたので、コメントさせていただきます。

    1犯人の残虐な行為が問題なんではない。
    自分はあのような状態で残忍に殺された犠牲者やその家族の事を思うと非常に心が痛みます。犯人のケースは彼の個人的な問題に根ざした極端なケースだとは思いますが、甚大は恐怖と苦痛を伴った死を強要された犠牲者の方々やその家族の心情を考えると残忍さが問題でないとは到底思えません。その辺りに対する言及及び洞察も聞きたかったです。

    2障がい者は社会的に功利性を持っていない。
    経済的な功利性で言うと障害を持った方達に対するサービスやあのような施設が雇用を生み出しているので経済的功利性ゼロとは言い切れないと思います。そして障害を持った方が生きる支えになっている家族や隣人もいます。その辺りの精神的な功利性も考慮に入れたほうがいいと思います。彼らの存在や遺伝子、言葉で救われる人や場面もあるのです。
    そして障がい者、健常者とあたかもはっきり線引して分ける我々社会の認識の歪みも問題だと思います。

    以上のような理由で、和尚さんが言われた、「功利性と犯人の心情が我々の本音である」という見解はやや極端であり、障がいや差別で悩んでいる人や家族の方々を非常に傷つけるのではないのかと思います。

    このようなどうしようもない悲劇や差別に対してあの世や宗教に答えを求める事が人間の歴史の上で数限りなく起こっているし、それで救われた人もいるのも事実だと思います。そこには異論はありません。ただ上記の2点に考察を入れることも障がいを持った方々そしてそこにつながっている我々人間全般の救いにもなると思うのです。

    以上、僭越ながら自分の意見を述べさせていただきました。これからも説法楽しみにしております。

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