17/02/26 「不忘念」と「不妄念」の間に – 駒澤大学での坐禅会の始まりに Posted on 2017年2月26日 by onedhamma_ryodo 2017(平成29)年 日曜ワンダルマ坐禅会 山下良道(スダンマチャーラ比丘) http://ia600107.us.archive.org/10/items/OneDhamma2017/OneDhamma_170226.mp3
曹洞宗の老師の影響を受けて,長年にわたり坐禅をしてまいりましたが, どうもすっきりしませんでした。頭を使ってはならない,念や感情が出たら追い払え,ただ坐りなさい,というような坐禅を続けてきましたが,何か漠然としていました。が,3年前よりワンダルマメソッドを続けさせていただき,さらに今回のお話をお聞きして,目からうろこが落ちる思いです。 これまでの坐禅や瞑想では,<思い(感情と思考)>と<気づき(マインドフルネス,念)>とをごっちゃまぜにして,<気づき>も<思い>の一部でありそれを排除しようとしたことが,最大の問題であったことに気づきました。<思い>と<気づき>とはまったく次元の異なる別のものであること,そして瞑想とは<思い>を手放し<気づき>の視点に立つことであることがはっきり分かりました。<思い>の視点から,<気づき>の視点へパラダイムシフトすることとの大切さを教えていただきました。 返信
曹洞宗の老師の影響を受けて,長年にわたり坐禅をしてまいりましたが,
どうもすっきりしませんでした。頭を使ってはならない,念や感情が出たら追い払え,ただ坐りなさい,というような坐禅を続けてきましたが,何か漠然としていました。が,3年前よりワンダルマメソッドを続けさせていただき,さらに今回のお話をお聞きして,目からうろこが落ちる思いです。
これまでの坐禅や瞑想では,<思い(感情と思考)>と<気づき(マインドフルネス,念)>とをごっちゃまぜにして,<気づき>も<思い>の一部でありそれを排除しようとしたことが,最大の問題であったことに気づきました。<思い>と<気づき>とはまったく次元の異なる別のものであること,そして瞑想とは<思い>を手放し<気づき>の視点に立つことであることがはっきり分かりました。<思い>の視点から,<気づき>の視点へパラダイムシフトすることとの大切さを教えていただきました。