2017(平成29)年 日曜ワンダルマ坐禅会 山下良道(スダンマチャーラ比丘)
東京マインドフルネスセンター ワークショップ集1仏教瞑想の多面的適用
日本に於けるマインドフルネスの歴史。
1,テーラワーダ仏教の長老たちと、ティク・ナット・ハン 師によって「Sati=マインドフルネス=気づき」が、1990年代ころより日本に伝わってきた。
2,一方、宗教性を排除したかたちの「マインドフルネス」が、セラピー、社員研修、学校教育などでアメリカを中心に広まり、その余波が日本にも届き始めた。ここ5年くらいか?
3,「宗教性排除」しているので、マインドフルネスがいったいどこから来たのかよくわからない、謎の流行語になる。でも、セラピーのジョン・カバット・ジンさんも、グーグルのチャディー・メン・タンさんも実は仏教の先生から学んだ。
4,NHKのマインドフルネス関連の番組も昨年時点では「宗教性排除」を番組の冒頭で強調していた。しかし、当の熊野宏昭さんが、最近、もしこれ以上「宗教性」の隠蔽をするなら、NHKにはもう出演しないと公の席で宣言。(先月のマインドフルネス学会で。友人談)
5,現代の局面は、いよいよ「マインドフルネス」と「仏教」の関係を真正面から見る必要がでてきた。
6,日本の禅僧たちの「マインドフルネス」に対する非常に深い「猜疑の目」は、いったいどこから来るのか?マインドフルネスは、彼らが言うように「主客を分ける」ものなのか?だからマインドフルネスなど忘れるべきなのか。それは只管打坐を汚す不純なものなのか?だから、曹洞宗の禅堂ではマインドフルネスを実践してはいけないのか????
7,実は、マインドフルネスとは仏教そのものだった。仏教=四聖諦→道諦=八正道→最重要なのが7番目の「正念」=Samma Sati= 正しいマインドフルネス。つまり結論は、仏教=正しいマインドフルネス。
8お釈迦さま&道元禅師のダブル遺言の「八大人覚」も最重要なのが、五番目の「不忘念」。その意味は勿論、「マインドフルネスを忘れるな」。
9,客観的にみて、お釈迦さまも、道元禅師も「マインドフルネス」を最重要なものとして位置づけているのに、何故、マインドフルネスが、現代の日本仏教では、素直に受け入れられないのか?ここが最大の謎。
10,マインドフルネスの原語、Satiは、「念」として漢訳されたが、この「念」を「マインドフルネス」とはきちんと解釈されてこなかったのが、東アジアの仏教のリアリティではなかったのか?
11,では、何故「念」がマインドフルネスではなくて、「思うこと」せいぜい「仏教の真理を思うこと」ぐらいの意味になってしまったのか?
12,「思う」ことと、「気づく」ことが峻別されなかったから。それは何故?理由は極めて簡単。実際にマインドフルネス瞑想をしなかったから。瞑想すれば、それがまったく別のものだとわかったはず。「マインドフルネス瞑想」を実際にリアルに伝える伝統が東アジアにはなかったのだ。私自身ミャンマーの森のなかで学び、腰を抜かした。マインドフルネスのあまりの深さに。
13,なので、「マインドフルネス」とは、東アジアの仏教の状況を、根本的に革新する、とてつもない可能性を秘めているというのが、現在の一法庵の立場。
14,私自身、「マインドフルネス」がわからなくて、30年も苦しんできた。仏教者としてのそれまでの人生の全否定を、何回も繰りかえさざるを得なかった。そうして、いまようやく、「仏教=マインドフルネス」だと断言できるようになった。
15,でも、お釈迦さまの遺言も、「マインドフルでいつづけなさい」だったのだから、「仏教=マインドフルネス」というのは、当たり前か。それを、「励め」とか、実にあいまいにしか翻訳してこなかった日本の仏教の現実。お釈迦さまの教えがちっとも理解できなかったのはしようがないなあぁ。
タイのお寺のパリー語のお経とミヤンマのパリー語のお経の抑揚は違うのですか?
又、般若心経のお経は宗派によっても異なるのですか?
タイ、ミャンマー、スリランカで抑揚も発音もかなり違います。スリランカが一番、わかりやすいですね。日本仏教の場合は、般若心経を宗派によって違うことはありません。