17/10/22 別の部屋があることを、ジャーナを通して知る Posted on 2017年10月22日2017年10月22日 by onedhamma_ryodo 2017(平成29)年 鎌倉マインドフル・リトリート in 一法庵 山下良道(スダンマチャーラ比丘) 台風が近づく稲村ヶ崎公園 http://ia600107.us.archive.org/10/items/OneDhamma2017/OneDhamma_171022.mp3
新たな本を出版されるとのこと、非常に楽しみにしております。 出来れば、瞑想の最終境地、只管打坐3.0が、どのようなものなのかについて、踏み込んでご説明いただければ、大変ありがたく思います。(それを知ることができるか否かによって、瞑想に取り組む熱意がまるで異なってくるからです。) 俗に言うワンネスすら超えた、完全非相対的な知覚をするようになるのでしょうか…? 例えば、キリスト教神秘主義カルメル修道会の、完全解脱者で在られる、バーナデット・ロバーツさんは、神は「見る者」でも「見られるもの」でもなく「見るという行為(seeing)」だと仰っています。 ここに至れば、慈悲的行為を行う必要性すら、感じなくなるそうですが、同一性、あるいは、共通性は、ありますでしょうか…? 長文コメント、大変、失礼いたしました。 返信
新たな本を出版されるとのこと、非常に楽しみにしております。
出来れば、瞑想の最終境地、只管打坐3.0が、どのようなものなのかについて、踏み込んでご説明いただければ、大変ありがたく思います。(それを知ることができるか否かによって、瞑想に取り組む熱意がまるで異なってくるからです。)
俗に言うワンネスすら超えた、完全非相対的な知覚をするようになるのでしょうか…?
例えば、キリスト教神秘主義カルメル修道会の、完全解脱者で在られる、バーナデット・ロバーツさんは、神は「見る者」でも「見られるもの」でもなく「見るという行為(seeing)」だと仰っています。
ここに至れば、慈悲的行為を行う必要性すら、感じなくなるそうですが、同一性、あるいは、共通性は、ありますでしょうか…?
長文コメント、大変、失礼いたしました。