2018(平成30)年 鎌倉マインドフル・リトリート in 一法庵 山下良道(スダンマチャーラ比丘)
新刊!10月5日発売 集英社より
「マインドフルネス×禅」であなたの雑念はすっきり消える (アマゾンのリンク)
2018(平成30)年 鎌倉マインドフル・リトリート in 一法庵 山下良道(スダンマチャーラ比丘)
新刊!10月5日発売 集英社より
「マインドフルネス×禅」であなたの雑念はすっきり消える (アマゾンのリンク)
このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー と 利用規約 が適用されます。
私は長年母への理解が足りずに苦しんできました。
たまたまここで聞いていたら突然、赦しとは「わたし」が「だれか」を赦すのではなく、すべてが最初から赦されていたのだとわかりました。 それから、思考にはパワーはなかったのですね・・与えていたのが自分だったなんて(^^ゞ。
存在そのものでありがたい・・・もうひとつの自己がある。そこ(?)はあたたかく美しい・・。
言葉は今の心を伝えられるかとても難しいけれどコメントさせていただきました。
達磨大師は二入四行という教えを説いたとされますが、それは実際は四念処だったんじゃないかと思います。
禅の歴史の中で、二入四行、おそらく四念処が失なわれた結果、看話禅、黙照禅に分裂したんだと思います。
そう考えると禅には四念処というメソッドが抜け落ちている、マインドフルネスにはメソッドしか無い。
それらを合わせると完全になる、と考えると腑に落ちます。
只管打坐はメソッドでは無いですよね。只管打坐は悟り終わった人間がやる事で、悟るまでのメソッドが禅には無い。
マインドフルネスでは誓願、持戒、懺悔、礼拝などの、悟りをサポートする概念が無い。悟れないからいつまでたっても煩悩は無くならない。
両者を合わせれば完全になるのは分かりますが、それらは全部テーラワーダに揃ってますよね。
テーラワーダ一本では何が問題なんでしょうか?
丁寧なご説明感謝致します。 ただ私は、これまで仏教は全く学んだことがなく難しいことが解りません・・・。 多くの書籍から自己流の解釈(^^;)をしてしまっていると思います。
たまたまハワイに行く方法という説法を聞いていたところ 私の!問題が、執着みたいなものになってしまっていたこと。 苦しんでいる私!ということはただの考えに過ぎなかったんだな・・・というのが出てきてフッと軽くなってしまったということが起きました。 それから、ただただ感謝が沸き起こってきます。 その感謝をお伝えしたくなって書かせて頂きました。 なので問題は私自身が創ってしまっていた制限だったという事に気づかせて頂きました。本当にありがとうございした。
また、失礼になりませんようにと願っております。