2013(平成25)年 日曜ワンダルマ坐禅会法話 山下良道(スダンマチャーラ比丘) 法話
One thought on “13/11/10 ブラフマチャリヤという青空の人間関係”
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68歳の小児科開業医です。『アップデートする仏教』を拝読いたしました。読後、大変見通しがクリアーになったと感じています。ただ、文中やさらに法話を聴き進むにつれて一つの疑問がわいてきました。それは「たとえ話は有効なのか?」ということです。例えば医療についてのたとえ話(薬とか治療法など)が出てきますが、これには医療従事者としていささか違和感があります。前提となる医療や病院についての認識にかなりの相違があると感じます。また「猿は喧嘩ばかりしている」というのも実感として理解できません。猿は猿という存在として仲間と立派にコミュニケーションをしているのでしょう。猿が人間より劣等な存在ということではなく、サルから人間が進化したわけでもありません。猿の行動に詳しい「サル学の専門家」からするとお話はおそらく全く納得できないのではないでしょうか。このように、たとえ話をする側とそれを聴く側でその話についての基本的認識が一致しているとは限りません.実際には大きくずれた断層があることがほとんどだと思います。そうであれば、たとえ話で何かを伝えることができるのだろうか。伝えることは不可能なのではないか。お話のなかで引用された池田さんの言葉は分かりますが、それが「青空と雲」の世界という話になるとついていけません。日常語はそれぞれに既に様々なイメージを付随して(あるいは汚染されて?)いますので何か言葉そのものが邪魔になるという感じです。「あなたはそれを理解できるレベルに達してないからです」と言われればそうなのかもしれませんが。単にそれは受け取る私だけの問題ではないのではないか。伝えようとする側、受け止めようとする側、その間に介在する「たとえ話」とか「日常語」。本当になにか伝えることができるのだろうか。伝わるのだろうか。そのようなことを感じています。もちろんなにも伝わらないということではありませんので著書に続いて日曜ワンダルマ法話を拝聴させていただいているわけです。ただ上記のような根本的な疑問が生じ、もどかしさを感じていますので、感想を述べさせていただいた次第です。