2015(平成27)年 日曜ワンダルマ坐禅会 山下良道(スダンマチャーラ比丘)法話
9 thoughts on “15/05/24 仏教思想のゼロポイント 魚川祐司氏との対話 ”
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2015(平成27)年 日曜ワンダルマ坐禅会 山下良道(スダンマチャーラ比丘)法話
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これほど興味深い話は滅多に聴けません、最高に刺激を受け、且つ身になった、勉強になったと感謝の極みです。
続編はまだ行われていないと思われますが切にお願いしたいです。一照さんと良道さん、一照さんと魚川さんの対談本は出ましたから、いずれ良道さんと魚川さんが見れれば嬉しいです。
魚川さんの言うところの”マハシでは”のままでは”断見”を否めません。
良道さんの言うところの”パオでは”のままでは”常見”を否めません。
三者居て誰も決定打を出せないこの議論に意味は無いと思われます。
それは何故か? 生成消滅の実態を観た人々な筈なのに”出定”を戻ったと称し
”元に戻って云々”と称し、そこで説かれて然るべき輪廻の在り様を欠いているからです。
”わたし”が悟ったらそこには最早従前の”わたし”は居ない事実を何故語れないのか不思議でなりません。
禅などでは”父母未生以前”の”自己本来面目”を言ったりします。
極論するならこれが”縁起”の事なのであり、それは自己ではない、自己のものではない、自己の本体でもない訳です。
三者方、もれなく相当学んでおられる様にお見受けしますが、所詮はご商売の為なのだなと残念に感じました。
鼎談では無我についての混乱が見られます。
ブッダは涅槃を説くのに、苦しみの終滅にポイントを置いている。
かつ、無我にも2種あって、
真如の覚知のときに知る無我(1)と智慧が生じたときに知る無我(2)がある。
最初の無我(1)の覚知だけでは、苦しみの完璧な終滅に至り難い。
最後の方で、渇愛の滅尽のことに言及してますが、まず渇愛の滅尽から最初の無我(1)が完成し、
次に智慧が生じ、無明が滅尽することから2つ目の無我を知ることになります。
2つめの無我(2)を知る前後に起きる苦しみの終滅が如何なることかまで対話を進めなければ解決に至り難いのではないでしょうか。
ニー仏氏は、文献原理主義の気質があります。仏教思想のゼロポイントの中では、輪廻はあるとブッダは言っていたと記されていますが、実際は、当時の社会状況(輪廻を信仰していたバラモン教が主流だった当時のインド人に対しての方便として、輪廻はあると記した)を勘案してみると文献と現実は違うことが分かります。ブッダは、明確に、輪廻の存在は否定しています。
また、青空としての私というものは、空という概念を前提にして、瞑想に励むということなので、現実を空として受け入れているか受け入れていないかの差であると思います。また、ニー仏氏は、自力の思想が強く、自力で、悟りを開く、ということに固執しているかのように思えます。本来、ブッダは、自と他の差はない、とおっしゃっています。大乗仏教は、一般大衆を救う、という思想があり、他力の概念が強いのですが、山下氏は、他力の大乗仏教と自力の上座部仏教の両方を経験した上で、仏教3.0(自と他の差はない)という概念に行きついたのだと思います。よって、ブッダのおっしゃる自と他に差はない、という考えに合致しているのは、大乗仏教と上座部仏教を両方経験している山下氏の方ではないか、と思いました。
2016年のコメントに対して今さらお伺いを立てるのはどうかとも思ったのですが、どうしても気になることがありましたので、質問させてください。
本文で「ブッダは、明確に、輪廻の存在は否定しています」とご指摘されていると思いますが、具体的にはどの経典のどの箇所にそのような叙述が見られるのかご教授願えませんでしょうか。
面倒な要望かもしれませんが、後学のためにご教授いただけると幸いです。
これは、仏教とアドヴァイタの関係論だろう。
青空というのを「主客の彼方」とか「すでに悟っている」と解すると、アドヴァイタに相当近くなる。が、なぜか山下氏はアドヴァイタとは言わない。これは、アドヴァイタを外道とする仏教原理主義を考慮してのことなのだろうか? いずれにしても、関係者はたえず、自己論について(無我か超我か)論争することになるが、この鼎談ではその点が突き詰められていないようだった。
テーラワーダは倫理的な面からというのもあって(比丘ボディ)、アドヴァイタは認めない。さりながら、どういうわけか、修行者の中にアドヴァイタを体験する人たちがいる(D・イングラム)。おそらくアドヴァイタは、体験としてあらゆる理論を乗り越えて、仏教の中に存続するだろう。たまたまそういう体験派が大乗の一部として、いわゆる不生などという概念に拘ってきた。この話の中にも登場したウダーナの<何もないところ>というのは、おそらくアドヴァイタ体験の数少ない三藏証言と思われる。
ところが、この不生論は、縁起論とはかなり齟齬する。不生が近いのは龍樹の縁起論だろうが、これに対して三枝充悳は、こんなのは釈迦の話ではないと断じた。不生の話をするならば、そこまで突っ込んでもらいたい。
現在、仏教原理主義や批判仏教でないかぎりは、仏教とアドヴァイタ(R・キング)、ないし禅とアドヴァイタ(L・デイヴィス)の関係論は受容されていると思う。その観点からすると、仏教とアドヴァイタすら同一性を指摘されるのであるから、テーラワーダと日本仏教など大した違いがあろうか。
インドでは、チャンドラダール・シャルマはアドヴァイタ的伝統の中に、仏教も含めている(The Advaita Tradition in Indian Philosophy)。では何がこの同一性を認めるのを阻むのか。それは実践でも理論でもなく、倫理道徳への視点ということに落ち着くと思われる。
百尺の竿先跳ばずに揺れながら
仮想において空を見上げる
核心に迫るお話で、興奮しました。やっと良道先生と一照先生の居られるところがわかりました。
ちょっと長めの鼎談でしたが、ほとんど聞きましたが、一般の人にはなかなか、受け付けないかと思いましたが、次回を楽しみにします。
ありがとうございました。