2016(平成28)年 御岳山お盆接心 山下良道(スダンマチャーラ比丘)
One thought on “16/08/12 やがては障害者となる全ての我々の為に”
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2016(平成28)年 御岳山お盆接心 山下良道(スダンマチャーラ比丘)
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お盆接心、大変お疲れ様でした。
御法話によると、山下先生のお母さんも老人施設に入所とのこと、「本当にお疲れ様・ご苦労様です。」と申し上げたい気持ちで一杯です。
私の義母も、最近90歳にて亡くなりましたが、やはり高齢者施設に入って色々お世話になっておりました。
仏教徒を自称する自分としては不謹慎極まる意見ですが、まず人間「生きるのは大変だ・・・」と言う事。更に現実問題として、生きるのと同じように「上手く死ぬのは」更に更に難しいものなのだと痛感いたしているところです。
神奈川の障害者施設での大量殺人事件、誠に凄惨極まる事件でした。ただ、犯人は「用のない人間だから消し去ろう!」とだけ単純に考えたのだろうか?と思ったりします。もしかして犯人の頭の中には、「可哀想だから、武士の情けで介錯してやろう・・・」という自分なりの正義感があったのではないか?等とも考えてしまいます。
勿論私は、そのような「悪魔のささやき」を正当化することは許されないと考えます。仏教では、「不殺生・不傷害」は非常に重要な徳目であると教えており、何より人間として「絶対にやってはいけない事」だと考えるからでもあります。
そこで私は、古い仏典に出てくるアングリマーラーの話を思い出しました。彼は非常に優秀で宗教的な素質を持つ若者でしたが、自分の宗教の師匠に「100人の人間の命を奪ったならお前は解脱(げだつ)出来る」と教えられて殺人鬼となり、丁度100人目の相手となったのが釈尊(お釈迦様)で「殺人を犯そうという修羅場の中で、真実の教えを諭され」その場で弟子となり、やがて悟りを開いたという伝説です。
いかに真面目で優秀であっても、「先生が悪ければ、とんでもない悪業を積む」ということ。更に、人間として「当然持っている宗教心・人間性」に照らし合わせて正しい道を進まないと、宗教的目標である解脱(げだつ・さとり)は不可能である。ということを教えていると思います。
この度の、御法話を聞きながら、そんな古い話を思い出しました。