19/04/06 真の神の場で本来の自己に目覚める Posted on 2019年4月8日2019年4月10日 by onedhamma_ryodo 2019(平成31)年 青空の黙想リトリート in 無原罪聖母修道院 柳田敏洋神父 マインドフルネスとキリスト教の霊性 ー 神のためのにスペースをつくる http://ia802909.us.archive.org/12/items/OneDhamma2019/OneDhamma_190406_002.mp3
柳田神父の説教を公開していただき、ありがとうございました。私は子供の頃から、存在の神秘に魅了されて、哲学と宗教に関わるようになったので、神父のお話には、とても啓発されました。私の宗教観の基本的な枠組みは、キリスト教神秘主義的存在論なのですが、私は仏教徒ですので、存在そのものを如と呼び、如からの働きかけを如来と呼んでいます。如来とは、即ち、本願他力のことです。この身(微細エネルギー場)において如来本願他力が実感されることを信心と呼び、信心が言葉となって顕現したのが、南無阿弥陀仏の六字名号です。ですから、私は念仏を称えるとき、存在の栄光を褒め称えているのです。存在の神秘や不可思議をギリシア語でタウマゼインと言いますが、キリスト教を通して、タウマゼイン的マインドフルネスも展開し始めたのかもしれません。 返信
瞑想リトリートに参加できず、残念に思っていました。神父様のお話を聴けて良かったです。トマスの神学大全は膨大な量なので読んでいませんがそのエッセンスを教えて頂き有難うございました。教会ミサだと罪の話が多いなと感じました。 返信
柳田神父の説教を公開していただき、ありがとうございました。私は子供の頃から、存在の神秘に魅了されて、哲学と宗教に関わるようになったので、神父のお話には、とても啓発されました。私の宗教観の基本的な枠組みは、キリスト教神秘主義的存在論なのですが、私は仏教徒ですので、存在そのものを如と呼び、如からの働きかけを如来と呼んでいます。如来とは、即ち、本願他力のことです。この身(微細エネルギー場)において如来本願他力が実感されることを信心と呼び、信心が言葉となって顕現したのが、南無阿弥陀仏の六字名号です。ですから、私は念仏を称えるとき、存在の栄光を褒め称えているのです。存在の神秘や不可思議をギリシア語でタウマゼインと言いますが、キリスト教を通して、タウマゼイン的マインドフルネスも展開し始めたのかもしれません。
瞑想リトリートに参加できず、残念に思っていました。神父様のお話を聴けて良かったです。トマスの神学大全は膨大な量なので読んでいませんがそのエッセンスを教えて頂き有難うございました。教会ミサだと罪の話が多いなと感じました。