一法菴開闢落慶啓白文
「一法菴開闢落慶啓白文」の背景については、以下の法話をお聞きください。昭和60年(1985年)11月10日に、鎌倉一法庵の竣工を記念した落慶法要が行われて、そのとき、開山である飯田利行博士が作成されて、読まれたものです。原漢文と、訓読文、現代語訳の3部構成です。
<訓読文>
一法菴開闢落慶啓白文
維れ時 昭和六十年十一月十日 一法菴開山一法利行等
紅葉荻花秋気蕭索の節に当り、茲に道場を清浄め土地護伽藍神護法の諸天の照鑑を仰ぎ当菴開闢落慶の法要を厳修す集むる所の功徳は各神光を協賛せしむるものなり。
私かに惟みるに今より六百五十二年前元弘三年。源家の新田義貞、当稲村ヶ崎において竜神に退潮を祈誓して宝剣を投じ納受する所となり、蒼海変じて平沙渺々となりぬ。次いで極楽寺坂の争奪戦に、源平相い博ち 勢い雷電を崩し 声 海嶽を析き 屍は相模湾を填め、血は鎌倉の窟を満たす。天地ために愁い 草木も悲傷せり。
茲に信心の施主開基山下良章氏あり。身を以て往時を追懐し、弔祭至らずんば 魂魄依るところなく必らず中有に迷わんと。且つ現世相を洞察し、もしそれ人心流離せば 世界の破局は必らず至らんと。因りて弔祭ならびに光明世界の再来せんことを祈念し一草菴の建立を発願せり。往日 月陰れば啾々たる声聞こえ 月冴えれば霜白く草枯れたりしも此の功徳力に依り曇華重ねて覚苑の当処に開き一華五葉を開き長く昏瞿を照さん。
一滴の法流は正位を保任し千歳に連り、
一顆の明珠は偏位を打破し万劫に鮮なり。
三昧の光明は人天を照らし、
三地の因果は地辺を転る。
六花陽春の弦
七里ヶ浜涯に宣まれ。
更に重ねて冀がわくは
山門鎮静 修道に災を蠲き、
山下家栄え 天壌と肩を斉え、
仏日 輝きを増し 諸縁を吉祥ならしめよ。
沙門一法利行和南す
<現代語訳>
一法菴を開創し堂字が竣工したお祝法要に際しての啓白文
紅葉や荻の花に彩られるさびさびとした秋の時節に当り、ここに道場を浄め土地の護り神や仏法を守護する諸天善神の御照覧を仰ぎ当菴開創落慶式の法要を厳かに営むところの功徳は、各善神の威力をともどもに賛えさせていたゞくものであります。
私なりに考えてみますのに、今より六百五十二年前、つまり元弘三年のこと。源氏出身の新田義貞が上州新田郡生品村に旗挙げしてここに攻め入り、当稲村ヶ崎において竜神様になにとぞ海潮を遠く彼方まで退かせて下さいと、腰に佩びていた黄金造りの宝刀を海に投じてお願い申したところ聴きとどけて頂き、たちまちにして青海原が広々とした砂地に変じていました。次いで鎌倉幕府の最後の塞となった極楽寺坂の争奪戦において北条氏の鎌倉勢と新田軍とが白兵戦を演じた。その凄惨さは雷電をも取りひしぎ、鬨の声は深海や高山をも分断するかと思われ、死骸は相模湾を埋め、血しぶきは鎌倉の洞窟を満たすほどでありました。ために天地も愁い、草木も傷み悲しむばかりであった。
ここに信仰心の篤い当菴開創の功徳を施した山下良章氏がおられ、海軍出身の経歴をもって過去幾多の痛ましい戦史を追想し、ねんごろに弔祭してあげなければ、戦死者の霊魂が寄る辺を失って迷いつゞけ浮ばれずにいるに違いないと。かつまた現在の世相を洞察し、もし今にしてこの状態を是正しなければ、人の心が荒んで世界の破滅は必至であると痛感した。そこでねんごろなる御供養と世界平和の再来を祈念してここに一草菴の建立を発願したのであります。過ぐる日まで闇夜の晩には鬼神の哭く声が聞かれ、また月光の輝く夜半には霜が降りその凜烈さに草もしおれんばかりの惨ましさを呈していたが、ここに草菴を建てることの功徳により、優曇華の華がもう一度この絶対境に咲き、天竺から西来した初祖達磨の禅仏法がいくつかの宗旨を開演し、無信仰の人達に光りをそそいだように怨親の別なく光明を与えることとなるであろう。
次に特にお願い申すことがございます。
たった一滴の水に譬えられるさゝやかな仏法の流れでも正伝の仏法を守り抜き千年の後までも続き、たった一顆に譬えられる明珠の兆しでも偏れる仏法を打破し、
幾千万年の後までもこの純粋の鮮明さを保ってほしいということ。
おさとりの世界の光明は、人間界、天人界も照らし、また因果の法則は過去現在未来にわたり歴然として娑婆世界をめぐり展開するであろうことを。
白雪陽春の曲は、あまりにも名曲なので同ずる者、和する者が少ないように、ここ一法菴の正法も七里ヶ浜のほとりぐらいには宣布されること疑いなしと信じさせて頂きますことを。
更に重ねてお願いごとがございます。
一法菴は、じっとこの地に鎮静もり、修行のさわりを払いのけ、施主山下家は天地のある限り弥栄え、そして赫々たる仏法の太陽はいよいよ輝きを増し、あらゆる結縁を吉祥たからしめんことを。
沙門一法利行謹しんで唱え奉る。
☆ 以下の写真は、昭和60年(1985年)11月10日、鎌倉一法庵の竣工記念の「開闢落慶啓白文」を読誦される飯田利行博士と、その日の様子です。